増田 章の金沢の恩師・永江輝代氏との対談 ウェイトトレーニングは哲学である/2019−6−7 修正版 第1部

Поделиться
HTML-код
  • Опубликовано: 13 июн 2019
  • あえて断っておくが、対談の中、極真会館に対し、永江氏が提案したことは、素晴らしい提案だとは思う。だが、私の考えとは少し異なる。話がややこしくなるので、ここでは、否定しなかった。
    確かに極真会館の仲間がユナイテッドする案は良い案だとは思うが、極真空手家には困難だと思う(理由はここでは書かない)。
    私は源流を大事にしなければならないと考えている。今、源流が何なのかがわからなくなっている。よくよく検討しなければならないと思う。極真の源流とは大山倍達の技術の源流(中国武術、空手、ボクシング、柔道、柔術、他)のみならず、大山倍達が何を感じ、何を目指したかを理念化すること。そしてその理念を具現化する手段を確立することだと思っている。そして優秀な極真空手のリーダーを育成すること以外にない。決して本部の稽古法だとか、本部で空手を習ったこととかではない、と私は考えている(そんなもの大山倍達の1割程度である)。
    今、自分自身に言いたい。すぐに死んでいくのに、道を極めることをせずに、空手を生活の手段とし、勢力拡大ばかりを図っていてはいけない。また現状維持に汲々とするのも然り。
    大山倍達先生と極真空手に感謝するなら、道を極めよ。
    繰り返すが、先の永江氏の提案は、良い考えだが、もっと極真空手家のレベルが上がらなければ、実現は難しいであろう。その証拠に、派閥同士が敵対感情を持って対峙している。また、その対峙を基礎にしながら存立している。そこには極真空手の源流を尊重する気持ちなどない。言葉で大山倍達を掲げていても、中身が伴わない。大山倍達師範は、このような斯界を望んではいなかったと思う。私が大山先生と接した感覚では、亡くなる直前の大山先生は、空手界全体の大同団結を意識していたと思う。だからこそ、極真会館が圧倒的な権威と勢力を有していなければならないと考えていたはずである。
    極真会館分裂の当事者が何を言う、と思われるだろう。しかし、私の考えは半分間違っていて、半分正しかった、と思っている。何を言ってもいるかわからないと思うが、分裂に関しては失敗だ。そう思うからこそ反省している。だが、極真会館と極真空手の価値を高めるという方向性に関しては間違っていなかったと思っている。失敗して見てわかることもある。しかし、それを活かせば、それは失敗ではない。
    とにかく「覆水盆に返らず」だが、この経験とその間の反省を最後に生かしたい。そのためには、今一度、原点に戻ることと、また人を選ぶということである。人は寂しさから、時に人を選び間違う。私の敵は「寂しさ」である。困難なことだが、私は寂しさなど捨て去りたい。あえていうなら、寂しさは「詩」に込めて、捨てていこう。そして最後の力を振り絞り、理想の空手道を作り上げたい。
    最後に、先の永江氏の提案は、英連邦などのあり方を参考にすれば可能かもしれないと思っている。もちろん英連邦がうまく機能しているかどうかをもっと検討した上でのことだが。
    ただ、武道の世界は立憲君主制が良い、と私は考えている。完全な民主制は難しい(もちろん民主制の良いところは取り入れるべきである)。
    もちろん、空手がスポーツとして確立されるなら、それも良いだろう。だが、武道団体の人たちは、スポーツと武道は異なると言う見解を持っている。そのような偏狭な考え方自体が民主制と相いれない部分だと言うことを認めないだろう。以上が現時点の私の考えである。
    以上、再考を要する考えではあるが、メモしておきたい。
    【訂正】
     
     もう一つ、今回の永江氏との対談の中、私は頭がボケていて「常行一直心」を正しくは「じょうぎょういちじきしん」のところ「じょうこういちじきしん」と言っている。間違いです。お恥ずかしい。
     更にもう一つ、道元の教え「心身脱落(しんじんだつらく)」を「しんしんだつらく」と言っています。本は読むけど、頭の性能が悪いので正しく検索できなかった。お恥ずかしい。
    後日、永江会長から伝言があった。西田幾多郎先生は、羽咋市出身ではなく、河北市宇ノ気町らしい。私は一度、西田幾多郎記念館に足を運んだことがある。確か西田幾多郎先生の書かれた「白砂青松」の書(印刷物)と「我死なば 故郷の山に埋もれて 昔語りし友を夢見む」と書かれた色紙を購入した。そうだ、宇ノ気だった…。
    アメーバブログにこの時のことを書いた。
    [恩人・永江輝代氏との対談〜ウェイトトレーニングは哲学である」
    ameblo.jp/masu...
    「美と光」~恩人・永江輝代氏の話を拝聴して
    美とは何か私は知らない
    美とは見るものか、感じるものか
    私にはわからない
    だが、それを感じることは
    事実だ
    美とは何か私は知らない
    だが、貴女の放つ光が
    今、その場を照らす
    そして、その場にあるもの全てが
    美しい
    美とは何か私は知らない
    だが、美を感じるには光が必要なのだ
    否、光の作り出すものを美とさえ思う
    ああ、美を感じるとは
    こういうことなのだ

    心一

Комментарии •